アダムとエバの堕落
人類始祖のアダムとエバの堕落の経緯はどうだったのでしょう。
その堕落で何がもたらされたのでしょう。
彼らが堕落したのは、現代でいうなら14歳頃と言われます。
堕落に導いた張本人は、三大天使長の1人 知恵の天使ルーシェルでした。
天使は、霊的な存在で、神様の僕であり、協助者であり、賞揚する存在です。
神様の天地創造を最初から手助けしていました。
聖書の創世記1.26には「われわれのかたちに、われわれにかたどって、人を造り‥」と記されています。このことからも分かります。
霊的存在ですが、手もあり足もある人間とそっくりの姿をしているのです。アダムもエバも、その時点では堕落していなく、神様とも会話していました。
神様は、精魂を込めて、命をかけるように天地創造し、愛する我が子 アダムとエバを創造されました。それだけに、アダムとエバはどれほど、輝いて美しく魅力的だったことでしょう。
天使長ルーシェルは、愛の減少感 寂しさ苛まれました。
自分はこれほど、神様を助け、広大な天地創造に尽力したのにと。アダムを羨ましくも思ったことでしょう。そして、言葉巧みに、エバを誘惑して我が物としました。(淫行)
エバは天使長ルーシェルの一つとなることにより、最大限の知恵を得て、自分の行為の実態を知り、
今度はエバがアダムを時ならぬ時に、誘惑して一つとなり(淫行)堕落したのです。
2人とも目が開け、羞恥心と恐怖心から罪を犯した部位 腰にイチジクの葉を巻きました。
神様は、このことを知り、激しく怒り、2人をエデンの園から追払い、ルーシェルも天界から投げ落とされサタン(悪魔)となったのです。
血統は遺伝します。アダムとエバは、堕落により神様の血統圏からサタンの血統圏になり、サタンの性相(性質)を受け継ぐようになりました。
利己主義、主管性転倒、血気怒気、責任転嫁、など
アダム家庭で、息子同士で、人類初の殺人も起きました。
以降、神様は背後で人類救済の役事をされていますが、サタンの血統圏は、氏族、民族、国、世界と広がり、数千年以上経て、神側とサタン側が対立する形で、矛盾と敵対と争いに満ちた現代に至っています。
生きるとは、死ぬとは 何か?
生きるとは、死ぬとは 何か? どう考えたら良いのでしょう。
その前に、人間の生命について、少し考えて見ましょう。
人の生命は、母親のお腹の中で受精して、280日の妊娠期間を経て出産されます。
多くの時間を子宮の用水と言う液体の中で過ごします。魚の様ですね。
280日の間に、地球が40億年近くかけて行った生物の進化を、人間の赤ちゃんは、発生からわずか40日足らずで駆け抜けてしまうそうです。
単純に考えれば、胎内の赤ちゃんの1日は、地球の1億年分に相当することになりますとのこと。すごい事ですね。
出産した後は、大気の酸素を吸って肺呼吸して生きるわけです。自分の意思で生まれたわけではなく、気が付いたら、この世に生きているわけです。
私たち人間も動物も植物も、遺伝子レベルまで見れば、過去40億年かけて遡っても、また未来永劫においても、同一な存在はいません。普段の生活では普通考えないと思うのですが、これは驚くべき事と思います。
唯一無二の存在なのです。それだけで、どれほど貴重と言えるのでしょうか。
それだけ、神様は私たち1人1人を貴重に愛して下さっていると言えるのではないでしょうか。
なので、天寿を全うせず、何らかの理由があるにせよ、もしも、自殺などして自分で勝手に
この世に生活に終止符を打つのは、重罪です。意味があって与えられた命だからです。
自殺は、自分で自分を殺める殺人罪です。あの世(霊界)では、最下層の地獄界で気の遠くなる期間、苦しむことになります。
さて、話を元に戻します。地上界(この世)の生活を終えると、肉体を脱ぎ、魂(霊人体)となって宙を飛ぶようにあの世(霊界)に行きます。鳥の様ですね。確か49日くらいは、真っ直ぐは霊界に行かない様ですが。事故や災害などで、急に自覚なく死去された方は、大変と聞きました。自分が死んだことを信じられず、受け入れられず、この世に留まり混乱されます。
東日本大震災のとき、僧侶の方が、成仏できない霊人の方を諭し大変苦労して霊界に送り出す内容をウェブで見聞きしたことがあります。
少し、生きるとは何か 死ぬとは何か 見えてきたのではないでしょうか。
霊界は永遠に続く世界です。計り知れない広さもあります。過去に亡くなった方は、全て霊界にいらっしゃいます。階層がたくさんあるそうです。上は天国界から最下部は地獄界です。更に階層に細分化されるようです。
丁度、280日の胎中生活の良し悪しが、地上生活の約90年に影響するように、
地上生活のそれが、永遠に続く天上生活に影響するのです。
私たちの肉身生活の生き様は、全て霊人体に記憶され、霊界に行ってから白日に晒されるそうです。隠しようも、弁解の余地もありません。霊界は愛の世界と言われます。
神様のような全き愛を、どれだけ体恤した(身に付けた)霊人体となれたかで、
愛の姿になっているかで、自分自ら、自分の一番合う居心地のよい階層に行くとのことです。
良き地上生活を全うできた霊界の旅立ちは、悲しいものではなく、むしろ、祝ってあげるべきものです。暗く、卑屈になる必要もありません。
これでこそ、法度と愛に則り、全てを主管される神様が創られた天宙世界です。
神様は、なぜ、直接的に、人類の堕落に関与できないのか?
聖書を見ると、一度だけ未曾有な規模で、人類の堕落、人類の悪世界に、神様は直接に手を下したことがありました。
ノアの洪水審判の時です。詳しくは聖書を見て頂きたいと思いますが、ノア家族と万物のひとつがいづつがノアの方舟に避難させ、大洪水で他を滅ぼしてしまいました。
想像ですが、人類の悪行は度を増し、詐欺、脅し、恐喝、略奪、傷害、強姦、殺人、淫行、享楽など
目に余るものがあったのでしょう。神様もどれほど憤慨されたことでしょう。しかし、
洪水審判後、自ら創造した愛すべき対象を、自ら殺戮し審判したこと悔い。二度と、このようなことはしないと語られています。
神様は、何故、直接的に、人類の堕落に関与されないのか?
ノアの時、洪水審判しても、その後、悪は復活して来ました。悪を根絶やししたはずなのに、悪の芽を完全に摘むことはできていなかったことを示すものです。被造万物をほぼ壊滅させたのにです。
神様は、人類を創造されたとき、人間にだけ、創造性を付与されました。我が子のような立場で、人類を創造されたのです。正しく成長していけば、神様のように成長、進歩していける創造性です。神様が人類の堕落に、直接に関与していくことは、①人類への創造性、自立性の付与を反故にしていくものです。また、②絶対で完全無欠、絶対善の神様が、悪なる堕落に関与してくことは、堕落の存在を神様自体が認めることにもなり、神様の創造の完全性のためとも難しいと、ご父母様は解かれいます。つまり、完全な神様が創造されたものは、完全でなければならず、堕落という不完全さを内包していたとは是認できないのです。
良家で厳しく育てられた子供が、魔がさして不良に走ったとします。親は、力ずくで不良になった子供を連れ戻すこともできますが、それで問題は全て解決するでしょうか。それは子供のためになる最善の方策でしょうか。子供の自主性、自立性を最高に尊ぶなら、改心して帰宅できる環境を作り、待ってあげるしかないこともあります。血を分けた父子でも、子供は、親とは異なる人格を持つ別で対等な存在です。
神様は、人類の始祖の堕落してから、争い、喧嘩、奪い合い、傷付け合い、傷害、殺し合い、強姦、淫行、享楽など、悪が家庭、氏族、民族、国家、世界と版図を広げ、
我が子のような立場に創造した人間の苦しみ、悲しみ、痛み、慟哭、悲嘆を
生みの親の立場で、私たち人間以上に苦痛を感じながら、いつか悪から脱して我が腕に立ち返る日を待ち侘びて背後で役事されてきていると、
人類で初めて、天地人真のご父母様は、解明されました。
時空を超越し、人間一人一人の心情や状況、地球や全宇宙の状況も全て、ご存知の神様は、子たる人間をどれほど愛していらっしゃるでしょう。誕生させてから、変わらない親の愛で、人類を見つめ、背後で救済の役事をされている神様です。
最後に、ご父母様のみ言を綴ります。
孤独で、やるせなく、
困難な立場で
一番孤独な立場に
いらっしゃるのが
神様なのです。
ですから神様は、
私たちの味方であり、
協助してくださり、
同情してくださるということを
知らなければなりません。
神様はどんなお方? 2
神様はどんなお方ですか。
神様はどんなお方? 1 で、神様は、
1) 目に見える外的な被造万物を創造された超越した科学者であり、
2) 目に目えない内的な こころ を持つ人格神でもあると説明しました。
今回、2)について考えてみましょう。
神様は、ミクロのクオークからマクロの今も広がっているという宇宙まで広大に創造されているわけですが、神様ご自身は、私たちが死後の世界(霊界)に行っても、基本的に、目には見えないそうです。神様は万能な神様ですから、現そう意図されれば、幻(まぼろし)なり、どんな形としてもお姿を表すことはできますが、必要がなければ、その様なことはされない様です。基本的に姿をお示しにならない無形の神様です。お声や力だけで存在や意向を示される様です。
霊界は、時空を超越したスピリチャルな世界です。コミニュケーションは、現生のように
音声を通さなくても、思い 想念は、隠し用がなく、ダイレクトに相手に伝わってしまう世界とも聞きます。
嘘や建前は通用しない世界であるようです。
本題に戻りましょう。
そんな神様ですが、神様は人格神と言いますが、幸せにはち切れた神様でしょうか?
実は、その全く、逆と聞いています。
万能で威厳に満ちた神様であることは、古くから言われていましたが、人類創世から、苦痛、悲しみ、辛さ、恨みに満ちた神様であるとは、知られて来ていませんでした。
イエス様の登場で、それまでの旧約の律法重視から、新約の(人類)愛の視点が上書きされたようにです。 目から鱗のようです。
神様が、人類始祖の堕落により悪が生じ、悪なるサタン世界が有史以来版図を広げ、心情が悲しみと苦痛にボロボロになっていらっしゃること、そんな神様を悲しみと苦痛から開放させて差しあげなければいけないと説き始めたのが、
万能な神様なのに、何故、ご自身で、解決できないと不思議に思われる人もいるでしょうね。
原理がそうなっているからです。説明は、ちょっと難しくなりますので、次回に紹介したいと思います。
祝福結婚について
「(祝福)結婚」は、キリスト教的には、人類始祖から始まっているのかと昨日、思い考えましたが、それは誤りでした。
聖書の創世記で、神様は被造万物を創造され、最後に人(アダム)を創造されました。
そして、人はひとりでいるのは良くないと、女性(エバ)を創造されました。
また、神は彼らを祝福して言われた「うめよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ‥ 」
創世記1章28節
「うめよ」とは、英訳で、fertleまたはfruitsful です。肥える、または果実がたくさん実る
意味です。心身ともに成長せよ と解し、個性完成と解釈します。
「ふえよ、地に満ちよ」は、個性完成したアダムとエバがひとつとなり、夫婦となり子女をもうけ、子孫を増やしなさいと解し、家庭完成ととらえます。
「地を 従わせよ」とは、万物をよく主管しなさいと解し、万物主管と解釈しています。
このように、祝福結婚は、何と、実は人類始祖からあったのですねと新しい発見をしたのかと思いましたが、誤りでした。
アダムとエバが神様から受けたのは、「三大祝福」です。受けたとき、彼らはまだ14,15歳だったそうです。堕落前で、汚れを知りませんでしたが、純粋ですが未熟な状態でした。
第一祝福の「個性完成」を成していく途上でした。
お話を現代に戻しましょう。
私たちが、真の御父母様より頂いた祝福は、「祝福結婚」で、「三大祝福」とは異なります。
私たちも、未熟ですが、時代的恵沢、恩恵と、真のご父母様より許可を与えられ、条件付きでですが「祝福結婚」を授かりました。
み言に出会い、学び、賛同し、祝福結婚を勧められ、結婚しました。
私は30歳代だったので、早く祝福を受けてマッチングでパートナーが決まり家庭を出発させたいと願っていました。パートナーは、どなたでも受けると決心していました。反して、妻は
結婚願望が殆ど無かったようです。共に、自分のためというより、神様の許可を得て、神様を喜ばせたいという気持ちが第一義的でした。
妻は、性格がとても良くて、優しいですね。晩婚なので、子供に恵まれず、とても残念で申し訳ない気持ちもあります。しかし、家庭出発して約20年過ぎ、互いに、白髪も増え爺さん婆さん様ですが、気持ちは青年のようです。これは生涯続くかもしれません。
なので、同年代の方に聞く、離婚とか家庭内別居とか、同じ墓に入りたくないとか言う
冷めた夫婦の問題とは、縁がない立場にいることは幸いに思っています。
神様はどんなお方? 1
万物や天宙を創造された方を、キリスト教では「神様」と呼びます。
私は、無神論ではありません。これ程までに精緻で寸分の狂いもなく調和の取れた被造万物を見ると、それが偶然に何の法則性もなく、デタラメから進化して生成していったとは考えられないからです。
万物や天宙を創造された方を、「神様」と呼ばず、他の名前で呼んでも良いでしょう。ただ、
そうした原因的存在がなければ、結果的な被造万物は存在できないと思っています。
ここでは、「神様」と呼びましょう。
では、「神様」は、どんなお方でしょう。
被造万物は、宇宙から中性子やクオークに至るまで、物理数学的法則で、全て統括されています。その道の専門でないので、その説明は他者にお願いしますが、ひとつ言えるだろうと想像するのは、その物理数学的法則に反しては、存続、生存はできず、自然淘汰されるだろうということです。
別の言い方をすれば、神様は、ロジックな物理数学的法則に則り、被造万物を創造され、統括されているだろうということです。
これは、外面的な側面の話です。
もう一つに内面的側面があります。
目には見えない魂、精神、こころの世界の話です。
植物には、指向性が、動物には本能が、人間にはこころがあります。
こころには、喜怒哀楽があります。
では、創造された人間に、そうした精神性があるのならば、原因となる神様に、そうした精神性はあるでしょうか、ないでしょうか。
無から有は生じません。つまり、神様にも、私たちが持っている、こころの作用
喜怒哀楽を、私たちと同じか、それ以上にお持ちだということです。
聖書を読むと、神様が、怒られたり悲しまれたり後悔されたり、喜ばれたりされている記載があります。
結論として、神様は超越した科学者であり、人格神でもあられるのです。
人生の究極的原理 2
真(まこと)の愛
真の愛は、完全な愛です。神様の愛に匹敵する愛です。
そして、真の愛を目指して、試行錯誤しながら、神様に尋ね、信仰の先輩にアドバイスや相談頂きながら、苦悶しながら、一歩後退二歩前進し、誠実に生きていくことなくして、
個人から家庭、氏族、民族、国家、世界と
神様に認められ、喜ばれる版図は広がっていきません。
それは、どんなに大変で厳しいことなのでしょう。
そもそも、自然界を精緻に見つめれば、自然界は厳しさに満ち溢れています。
生命溢れる地球は、ほんの薄い成層圏により維持されています。それ以外の成層圏外で
生命を維持することは難しいでしょう。
大気圏内でも、高度10000メートルでは、氷点下50度Cくらいです。
気圧は、0.26気圧──地上のほぼ4分の1程度だそうです。生身の人間は生存できません。
地上でも、サハラ砂漠では、最高気温は40〜50度C、最低気温(冬)は氷点下の時もあるそうです。
動植物に、人間意外、飽食などありません。食物連鎖の中で、生きるか死ぬかで
生き、種を存続させているというのが本当のところでしょう。
万物の長、人間も稀にクマやイノシイ、クマンバチ、ハブなどで命を落とすことがあります。
本当は、太古の昔から、未来も、「生きる」とは、とてもシビアで大変なこと
それは、実は当たり前のこと、当然なことなのなのではないでしょうか。
科学技術や文明が進歩して、私たち人間は、危険の少ない守られた環境圏で生活することが殆どですが、
原点として、人間にとっても生存に適した地球上でも、『本来的に、生きるとは、とても大変なこと』 なんだなと思考すれば、
日々の生活の苦しさも、大局的観点から、少し和らぐのではないでしょうか。